2010年12月30日木曜日

ピュアなお夏に感動

 お夏がかんたを逃がす場面。【お夏の願い】たぶん僕の大好きな多田メロディーのひとつになると思います。歌詞もメロディもとてもいい曲です。その歌を歌う場面に多田先生は最後までこだわって、本番でもかんたの動きを袖幕からアドバイスしていましたが、あそこがクライマックスに至る大切な転換点だったんですね。

 さだが変わり、かんたが変わり、かんなが変わり、ゴンゴ達が変わり、村人たちが変わり、庄屋さまが変わり、長老もまた変わっていく中で、ひとり透き通ったやさしい声で標準語を話すお夏の変わらないピュアな存在。「生まれつき脚が立たない」という★しょうがい★が人の心に及ぼす意味の深さ、人の醜さを引きずり出して人生をゆがめることもあれば、人の優しさを誘い出して人生をより美しく磨きあげることもあるという複雑さ。この小田川のゴンゴという物語はよく表現できていると思います。

 お夏役の柳川さん、好演でしたよ。おつかれさま。佐藤さんのキャスティングに一枚加わった岡本さんも僕も期待以上のものを演じていただき大満足。その澄んだよく通る声もちょっとクールなその容姿もお夏にぴったりでした。

 かんたのしほちゃんが小学1年でデビューした翌年、柳川さんも1年生で初舞台。2005年『吉備の冠者』でおねえさんやお兄さんおじさんおばさんたちに交じって、わらべを演じています。この時の公演は、前年の『かぐや姫』に引き続き昼・夜二回公演。小学1年生にはきつかったかなあ。お母さんもご苦労されたことでしょう。
 この年の小さな子供たちの中で大熊の記憶に残るのは、鬼の城の居間のシーン。「あの音なあに、誰が来るの・・・」動きながら台詞を言い、ヤマトから攻めてくる者たちへの恐怖を表現する。そして、松田浩美先生の歌う阿曽姫のこもり歌にあわせて当時小学3年、前年にお母さんやお姉ちゃんといっしょにデビューしたちっちゃな家入あみちゃんが何度も何度も多田先生に動きの指導を受けていたこと。波の音におびえ動き回り、最後にお母さんの膝にもたれて最後はだらんと手を垂らして寝てしまう・・・。三年生でもきつかったでしょうね。鍛えられたかな?

 さて、柳川さんの方はこの時はダンスや歌だけでせりふはなかったのかな。次の年

★2006年 吉備の黒媛  2年生
この村の子10数名の中に、佐藤あかり・家入姉妹の他に、木林姉妹・石井志穂・松田奈々・石崎七海・宮野なつき・守屋里子・柳川愛香という、その後の四年間を子供チームの中核メンバーを担うことになる方々が勢ぞろいします。しかし、当時仁徳天皇おじさんはあみちゃん、あかりちゃん以外は子供たちの顔と名前、全く覚えられませんでしたね。フィナーレ「こどもがやってくる」を歌いながら手をつないだ子は写真で確認すると宮野なつきさん。
なんばみちこ先生の▼こどもは未来、子供は希望▲という歌詞が象徴的。








★2007年 おさん狐  3年生
柳川さんは、月見草のダンスと村の子。この時の月見草のダンスや村の子のきつね踊り、小野先生に習った真備音頭の練習風景が動画で残っています。
佐藤先生が振り付けをした村の子の狐踊りでは、新体操のあかりちゃん、あみちゃんそれにこの年初登場・岡本ファミリーの華緒理ちゃん、3人の新体操おどりの後ろで、柳川さんはセンターを取って踊ってますね。ダンス得意ですね。左隣に、若かりし「かんた」並んでおどっている!



●村の子の狐踊り 初練習2007/9/1 と 9/11練習の動画   
Youtubeに投稿しました。
  


 大熊としては、前年2006年の吉備の黒媛では、実年齢20歳以上年下の若くて美しいヒロインと一緒に歌いながら扇をもって踊る日本舞踊の真似事がとても苦手な新しい課題だったが、この年は、酔っ払った庄やんが不思議な石を追いかけるパントマイムが楽しくてチャレンジングな課題だった。あの時は練習を客席から動画で撮ってもらってチェックした覚えがある。この子供たちとのダンス共演は、「すずめのお宿」のいばら戦争に続いていく。

★2008年-2009年 すずめのお宿   4-5年生
柳川さんは糊の精のダンス、相棒の里子ちゃんと二人で風の精を歌って踊ったりしていました。台詞は、村の子とおばあさんのからみで「・・・・すずめのお宿には行けれそうで行けれません。・・・」だったでしょうか。



   ■ この写真は、2009年10月 国民文化祭しずおか で、
     『すずめのお宿』を上演した時、プロカメラマン撮影

 これまでに比べると今年は爆発的にセリフが増えたうえにソロ曲が二曲。大変だったでしょう。多田先生の歌の個人練習の時のテープや編曲の入ったCDをお渡ししましたが、役に立てていただけましたか。多田先生に直接マンツーマンで指導を受けるチャンスが今年は少なくて、ゲネの時まで「おとーうさまのこと・・・」が直ってなくてダメだしをくらいましたね。多田先生は「『う』を消して『お』と書いておくこと」とか時々楽譜への書き込みを指導してくれていたんですけど・・・・。

 いま、ゲネの時に録画してもらったDVDを見ていました。ゲネでは今一つだった最後の「クララが歩いた」のシーン。直前練習で少し良くなったかな。今年はいつもの年と違って公演直後にDVDを見る機会がありました。本番の時の煙がどう見えるかちょっと心配ですが、今年はもう一度DVDができ次第見てみたいなと思っています。皆さんと違って、少し生活にゆとりができたせいかも・・・。

 こうして柳川さんたちとの数年間を振り返ってみました。
小学校生活もあと数カ月。ミュージカルも大切な思い出の一つになりましたか。
本番の朝、むっつりしていて佐藤先生に叱られてましたね。小学6年だもんね。
柳川さんにお夏のピュアな心が乗り移って、これからどんなふうに大きくなっていくか、長老も毎年、七夕の夜、れん達と梅ばあさんちのきゅうりを食べに人間界に帰ってきた折に、こっそり草葉の陰からのぞかせてほしいな。

 本当にお疲れ様。おじいさんはピュアなお夏に感動したよ。
 本番の日の朝、陸上記録会の作文の宿題をしていた相棒の守屋里子さんにもよろしく。
いい友達だね。

2010年12月19日日曜日

かんた とてもよかった




かんたとかんなの配役は佐藤先生ご指名。これは順当だったなあ。せりふが「すずめのお宿」に比べて爆発的に増えて大変だったけど、それだけ演ずる場面も増えて中学1年での主役、これまでの集大成、立派につとめられましたね。パチパチパチ!
本当は多田先生にかんたのソロ曲も作ってほしかったけど、欲張り過ぎか。

さて、よく調べれば6年前の「かぐや姫」当時小学1年でミュージカル・デビュー。     だるま蛙の役を演じて以来、7回目の舞台になるんですね。
このだるま蛙チームの子供蛙7匹を従える大人蛙が柳生さんと佐藤敏江さん。この時6年後の姿を想像など出来なかったでしょう。石井さんの台詞は、
▼どんな男たちがやってくるか心配なんじゃろう▲だったかな?
どんな小さな子供にもひと言でも台詞があるというのがマービーミュージカルの伝統。小学校前の字も読めない子供がちゃんとセリフを覚えて話すことに感動していた覚えがあります。
ちなみに、このとき親蛙の柳生さんが着た衣装から蛙のおなかの白い布を取ったものが、今回、ゴンゴの長老として大熊が着た衣装になっているようです。このときもう一人の親蛙を演じた佐藤さんも同じ衣装を着ていていましたね。2005年のおかやま県民文化賞の写真で確認できます。

さて、この「かぐや姫」という作品は白神久吉氏の脚本だが、この作品から多田先生が作曲と同時に実質的に演出もやり始めた転機となる作品。かぐや姫の幼女期・少女期を演じたあみちゃん・あかりちゃんが「すずめのお宿」まで子供チームの中心となってきた。

かんたのしほちゃんはその後・・・大熊のファイルをひっくり返して調べると、
★吉備の冠者 温羅に危機を知らせるだるま蛙 
★吉備の黒姫 黒媛の帰国を迎える村の子  波のダンス
★おさん狐  月見草の踊り  祭りの場面の村の子
                  → 写真あり
★すずめのお宿  木の精・いばらのダンス  村の子
                  → 写真あり

しほちゃん達の世代は、先輩である中学・高校生のお姉ちゃんたちに交じって、小学校6年間をミュージカルとともに成長してきたんだなあと思う。大熊はゴンゴのチームで演技するごく最近まで石井さんと石崎さんを間違えたりしていたけど、演出担当の多田先生や佐藤さんはこの六年間、一人ひとりの子供たちの舞台での成長をきちんと見守ってきたんだろうなあと思うと頭が下がる。

町民ミュージカルは大人中心、大人主役の時代から徐々に子供に中心が移り、「すずめのお宿」で子供ミュージカルとして確立されてきた、その流れの延長で、今回の「ゴンゴ」があったと思います。
「ゴンゴ」の場合、「すずめ」に比べて、大人の入らない子供たちだけの場面が多く、指導する側は大変だなあと思っていましたが、村の子チームもゴンゴチームもよく上達したなと思います。子供チームの中にもお母さん方も含めた大人達にも、上達を引っ張る人がたくさんいてくれたんだなと思います。
今回の「ゴンゴ」が最後の1週間でぐんぐんレベルアップし、本番直前ギリギリまでより完成度の高い舞台のためにみんながそれぞれ努力したこと、一発勝負の本番に強いミュージカルのチームとしてのそういう力量は、かんた達の現在小6~中2世代の5~6年間の蓄積が大きいなあと思います。
例えば、「ルエキの布」の中の「わかったわかった長老様・・・」の部分の踊り。直前までなかったものが、お母さん方からの「あそこで棒立ちじゃあねえ・・」というひと言でかんた達本番直前に作りました。
かんたは、輪なげがうまく達磨に入るように練習したり、ルエキの布をかぶってお夏を助けにいく場面の布の使い方を練習したり、直前まで長老に負けずに?! 熱心によく練習されていたのが印象的です。

また、箭田の夏祭りに松田君とふたりでお越しください。


それから、石井君て、河童のイラストも上手だね。小田川のゴンゴ紹介の大きな紙芝居といい、佐藤さんが休みの時の大熊と岡本さんの演習で自分のなりたい役をイラストと台詞で書いてもらった時のイラスト。画像にして添付します。





この写真は2007年の『おさん狐』大熊は二役目のたあさんを演じている。



この動画は、『おさん狐』の村の子の狐踊りの練習場面





この写真は2009年の静岡・国文祭『すずめのお宿』石井さんらは木の精を演じていた。



2008年本番前の通し稽古  木の精の踊りの場面

佐藤うめばあさん ありがとう




さだや美津がゴンゴ達に触発されて消火を始める。
ウメ▼みんな! 何をぼやぼやしておるんじゃ。
ゴンゴの言う通りじゃ。
助けおうて生きていくのは当たり前じゃ。
はよう、はようせんか
・・・・・

11月16日にチケット代を持ってとなりのまび記念病院二階病棟に佐藤さんを訪ねた。
看護婦さん真っ最中の恰好で出てこられた。
腰は曲がっていなかった。

大熊▼
ここ四、五年ボランティアでお年寄りについていってミュージカルを見ているライフの職員が、今年が一番感動した。終わりの方の場面は涙が止まらなかったと絶賛でしたよ。
佐藤さん▼
実は私のおじいさんが亡くなって今日は早退します。・・・14日が終わるのを待っていてくれたのかも・・・。
大熊▼
この写真、10年くらい前の病院のデイケア。映ってるの佐藤さんですよね。この時から利用しているMばあさん、14日も見に行ってましたよ。

台本をもらった時から、この物語は骨組みがよく考えられていると思った。
それは・・・・

人はいがみ合い憎しみ合う側面と愛し合い助け合う側面を持つ複雑な生き物。
庄屋と村人たちの葛藤を乗り越えるきっかけは、
やんちゃなゴンゴ・かんたの冒険、足の不自由なお夏との出会い、
お夏という一人の人間の中にある生命あるものへのやさしい心への気づき
火事という危機に直面した時
かんたに触発されたゴンゴの子供たちの勇気ある行動が村人を動かし
庄屋と村人たちの間にある憎しみの関係を乗り越えていく

よく考えられた物語だと思う。
「すずめのお宿」以来おばあさん役のキャラが定着した佐藤さん、アマチュアの脚本家としても演出家としても才能を開花させ、ひとまわり大きく成長しましたね。いろいろご苦労はあったと思いますが・・・・。

★世の中は苦しいことも悲しいことも、すべては生きていくための試練。みんなで力合わせ。共に生き抜こう、未来に向けて。★

大切なメッセージをストレートに詠う「みんなのうた」を口ずさむと、いろんなことが心に浮かんできて、熱くなります。

でも、長老はあそこで歌詞を間違えたなあ。
ゲネのあと、多田先生に指摘された所は正しく歌ったんだが、そのあとが・・・・
反省しきり


写真は2009年10月、静岡県磐田市で国民文化祭の子供ミュージカルの祭典で『すずめのお宿』のじいさんばあさんをを共演した時のもの

2010年12月8日水曜日

小生意気なしず お疲れ様



しず役の松田奈々さん、お疲れ様でした。
大熊妻のコメント●あの低音の声でぶっきらぼうに話す女の子。あれがよかった。難しい役だけど、とてもいい雰囲気を出していたよ。天然キャラかもしれないけど、なかなかできるもんじゃない。
夫の返事●しずの役は難しいのよ。松田さんで正解でした。原稿棒読みのようで棒読みではない、独特のキャラ。本番に近づくにつれて小生意気さに磨きがかかってね。

今年のミュージカルは、松田さん、石井さん、荒尾さんたち中1世代を中心に、小学校低学年の時代から5~6年間、毎年舞台に出続けた子供たちの蓄積された実力に支えられた本格的な子供ミュージカルとして歴史に残る?????名作でしょう。
KCTの放送が楽しみだなあ・・・・
ミュージカル評論家の大熊が振り返りのメモを書いていきます。


2010年11月28日日曜日

本物の長老様たちに感謝



 
 この10年間、マービーミュージカルの本物の「長老」として私達が精一杯活躍できる場を守り育て続けていただいた「長老」様達に感謝します。
 立ち上げの当初は大勢の方々がスタッフとして参画しみんなで盛りたてていたのに、いろんな事情があってだんだんと大人たちが遠ざかってしまって、残された「長老」達はきっとさびしい思いの中で私達を支え続けていただいていたんだなと思います。
 でも、ここ数年は、育成会のお母さん、お父さん方が参画し、らくらく連絡網という便利なツールも活用して、佐藤さんが引っ張り、子供中心のミュージカルとして今年も感動的な舞台を作り上げことができました。
本物の「長老」様達のこの10年間抱き続けた思い、そして、少し遠ざかった所から暖かく見守っていただいてる真備町のたくさんの「長老」様達・・・・
 終演後、ロビーで偽「長老」の大熊に駆け寄って「私達1回目の出演者よ。今日もとてもよかったですよ。・・・」と言葉をかけていただいたおばさん達。
 10年前、高見茂氏らが呼びかけ2年半の準備期間を経て8年前の第一回公演にこぎつけた「町民ミュージカルを創る」という理念★マービーふれあいセンターの大ホールを活かした総合的な舞台芸術の創造、真備町に新しい文化が根付き次の世代に引き継がれていく★・・・・・
 この理念はじんわりと私達の中に浸みこんできていると感じました。
 井伊長老様、野瀬長老様、たくさんの本物の長老様、ありがとうございました。

多田先生に感謝!

このブログ久しく休んでいましたが、2010年11月14日の第9回公演『小田川のゴンゴ』が終わって、8年間を振り返って、らくらく連絡網のメーリングリストに投稿したものを掲載します。
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多田先生、今年も素敵な歌をありがとうございました。

多田先生とは2002年の吉備真備で押勝の歌をレッスンしていただいた時からのお付き合い。楽譜の読めないピアノの弾けない大熊はいつもカセットテープに先生の伴奏と指導の声と自分の歌声を録音して車の中で何度も何度も聞いていました。
2002年の夏ごろ? 土曜日の午後マービーのリハーサル室でコーラスの練習が終わった後、初めてマンツーマンのレッスンを受けた時の緊張感をうっすら想い出します。

 当時の演出の土屋瞳氏の台詞指導の録音もあり、台詞もテープに吹き込んで覚えてきたので、カセットテープはこの9年間で五十本くらいになります。そう言えば多田先生が皇后を演じた時の台詞指導も残っていますね。
▼これ押勝、控えなさい。げんぼう殿、気になされるな。
実はこの時、ダブルキャストで佐藤敏恵さんも一時期、土屋瞳先生の演出で皇后の台詞を練習していたんですね。テープに声が残っています。
佐藤さんは真備の母役をしましたが、あかりちゃんは最年少5歳・村の子で出ていましたね。
公演の終わったこの時期、古いテープを出してきて懐かしく聞いています。
 この年初めて多田先生のメロディーに触れ、美しいメロディーに感動していました。

★忘れないで(2002)  
 忘れないで吉備の国のこの景色、神の庭
 忘れないで私の小さな祈り まきびよ・・・・
まだ赤ん坊の孫・吉備を抱いて都に旅立つ息子国勝夫婦を見送る祖母と村人たちの歌。
今でもライフタウンまびの四階から西の方を眺めて口ずさみたい歌です。

★美しきものの歌(2002)
楽譜への多田先生のコメント▼旅情豊かな音色で切々たる願いを込めて歌いあげられたらと思います▲
吉備とレイランの歌。1年目は、真備役、前半は当時中学3年生の柳生さやかさんが務めました。レイランは大学生の太田由香利さん。上演した2年間、こんな美しいメロディーの歌を歌いたいなあと思いながら、真備の敵役・押勝の勇ましい歌を歌っていました。
★天の原  天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも・・・・仲麻呂の有名な短歌にメロディーをつけた美しい曲です。これは日名さんが歌ったかな。

2004年のかぐや姫で翁役をやって、これでおじいさん役に邁進かと思いきや、その後、吉備の冠者、黒媛、おさん狐と、年甲斐もなく若いヒロインの相手役になってしまいましたが、おかげさまで、憧れていた多田メロディーのしみじみと歌う曲を歌わせていただくことができました。いずれもなんばみちこ氏の脚本・作詞でした。

★温羅の歌(2005)  もしも仮面の下に隠れて私の思う人がいてくださるなら・・・・
★立ちのぼる光の中で(2006)  立ちのぼる光の中舞う蝶のよな媛・・・
★会うは別れのはじまりと(2006) 会うは別れの始まりと人は言うけれど・・・・
★たあさんの歌2(2007)  無残な無残なこの屍、可愛い娘よ・・・・

 2005年~2008年の三作では歌と踊りがセットで、歌詞とそこを歌う時の動きを緻密に表にして、早朝の誰もいない職場で何度も書き換えながら練習したことが懐かしく思い出されます。今回の「ゴンゴ」の歌と振り付けはそこまで緻密にはやりませんでしたが、この時期の練習が身体の中に蓄積されているのような気がします。今回、練習不足の割に本番で大きなしくじりもなかったのは、これまでの蓄積かなと思います。
 今回は、ゲネの時まで、途中で歌詞がとんだり「我らをまもる守り神」を「我らを照らす守り神」と間違えて木林さち君の指摘を受けたり、「あーれを使う時がきたのじゃ」の出だしを間違えたり、あまり完成度は高くなかったのですが・・・・。もう少し通し稽古の舞台で衣装をつけ小道具をもって歌い込んだり、早い時期に、自分の歌いながらの動きと周りのゴンゴの子供たちの動きを動画にとって子供たちと一緒に振り返りチェックし工夫する機会をつくればよかったなと思っています。
 ただ、みなさんの協働で完成した「ルエキの布」舞台の上で、お母さんたちが縫い付けてくれたスパンコールが揺らすたびにキラキラ輝いて、これをゲネの日に客席から見て、揺らすんだな!と気づいたことはプラスでした。子供たちのダンスも入り、あの曲とダンスは本公演で一発勝負の頂点を極めた・・・。
 だだひとつ・・・・
▼大熊さん、『ルエキの布』「鳥のように風のように」を「鳥のようにハネのように」と歌ったでしょ。気がつかなかった? (・・大熊・無言で首をかしげる・・・) まあ、わからんけどね。▲
 今回も多田先生は、ご自分の創りだした一つ一つの楽曲を大切にされている姿があちこちにうかがわれました。多田先生のダメ出しは毎年心に残ります。ご自分が開演前のアナウンスで通路と道路を間違えて自分でも笑ってましたけど、・・・・
こんな失敗も、小学校の時のうんちのおもらしのように、遠い未来から振り返って笑い話になるような「失敗」として心に残っていきますね・・・
「すずめのお宿」の時は、短い台詞の微妙な言い回しが難しかったですね。
▽ うまかったか?
▽ お化けぇ?!
何度もNGを食らったことが懐かしく思い出されます。
 職場で地位が高くなり年齢も上がってくると、自分へのフィードバックが周りから得られにくくなります。それでもなお仕事の中で学び成長したいと思うのなら 意識していろいろな所からフィードバックを求めるべきであると言われています。職場と違い、ミュージカルの集団の中では一人の役者として、先生から指導される立場になり、この点でも僕の生きている世界を広げてくれたなあと感謝しています。多田先生のダメ出しも、時々子供たちと一緒に怒鳴りつけられたことも、8年前に土屋瞳先生に一度だけ思いっきり叱られたことも、いい思い出になっています。

 多田先生は今回のパンフレットの「ご挨拶」で、全9回の公演のなかで146曲を提供したと書かれています。
▼思えば10年前、手探りで始まった初めての作曲でしたが、キャストたちの思いや一生懸命な姿、そして何よりも元気な歌声が私に感動を与えてくれ、常に曲づくりの原動力であったように思います。皆さまの心に響く曲が一曲でもあれば、作曲者としてはこのうえない喜びであります。▲
 大熊妻によれば、今回は、最後の『みんなのうた』が心に残ったようです。
 今回は、脚本は佐藤先生でしたが、曲については、作詞・作曲とも多田先生が担当しました。
 大熊の手元には三つの脚本があります。
●a 4月24日配布 カッパA B C・・・など名前が入っていないもの
●b 6月1日配布  カッパや村の子に名前が入り、配役が決定した段階
●c 8月17日配布 多田先生の作詞部分が入り、ゴンゴの台詞が真備弁に修正。
「みんなのうた」については、佐藤先生の最初の脚本に、こういうコメントがあった。
▼全員の歌
 誰でもみんなひとりでは生きていけない。お互いに思いやり助け合い生きていこうみたいな内容。歌い始めだけ 少しカッパA(後の かんた)のソロが欲しいです。▲
 その後、子供たちとの話し合いでゴンゴや村の子や村人の名前が決まり、多田先生の作詞と真備弁への修正・・・。多田先生が付け加えたMα 神の子ゴンゴ は一旦、最後の長老の台詞とセットで削除されましたが、10月に長老の最後の台詞は復活。大熊がアレンジして演じました。多田先生の本番直前のコメントは▼長老は、もうすこし動いたら・・・
 ひとりでは実現できないことのために、みんなの力を合わせるということは、決してすんなりいくとは限りません。異なる才能、異なる考え、異なる強みを持っているから、その人たちのコラボレーションが創造的になるのですが、しかし、そこには、様々な個性のぶつかり合い、葛藤を伴うものだと思います。
♪♪ 世の中は苦しいことも悲しいこともすべて生きていくための試練・・・・
個性のぶつかり合いや葛藤もまた、よりよいものを生み出す為の「試練」として、受け止め、乗り越えてゆきたいものです。

 多田先生、今年も有難うございました。

■ この写真は、2002年12月1日 第一回の公演が終わった打ち上げの会で・・・




■ この写真は、2009年10月 国民文化祭しずおか で、『すずめのお宿』を上演した時、プロカメラマン撮影