2007年7月1日日曜日

2006年上演「吉備の黒媛」について  060930のDCネット・フォーラム投稿記事より



■ 自分の中の古代史ブーム

12月3日に地元のマービーふれあいセンターで上演される町民ミュージカルで、今年は、『吉備の黒媛』を上演しますが、大熊は、黒媛の相手役の仁徳天皇を演じることになっています。毎週火曜と土曜の夜、二時間ずつ練習しています。

 昨年見に来ていただいた、元気老人の皆さんから、「近づきましたねえ。」と声をかけられます。今年も楽しみにしてくれているようです。仁徳天皇の国見の話しというのがあって、仁徳天皇が狩りに出て山に登り、家々からかまどの煙が立ち昇っていないのを見て、人々の暮らしが貧しいから煙が立ち昇っていないのだということで、三年間、貢物や賦役などを免除したという話です。

 この物語は、現在、明治時代の末から昭和の終戦まで、小学校の国史の教科書に載っていた有名な話で、毎週火曜日にショートステイに入ってくる80台の男性は、よく覚えていました。また、別の男性老人にこの教科書に載った挿絵をみせて、「これ、誰かわかる??」と聞いたら、「そりゃあ、にんとくてんのうじゃろう。」と答えてくれました。

 大熊は、仁徳天皇の役作りもあって、古代史の「入門書」を文庫本で次々買って、一時読み漁りました。台本の中に、古事記のなかで、仁徳天皇や黒媛の詠んだ歌が織り込まれており、日本古典文学大系の「古代歌謡集」を古本屋で手に入れて、その項だけを読みました。 

   ▼ 山縣に 蒔ける青菜も 吉備人と 
          共にし摘めば 楽しくもあるか  ▲

 地元岡山県では、黒媛伝説は、県南の総社地区とともに、県北の津山市勝北町にも残っていて、この町でも、町民ミュージカルで「吉備の黒媛」を毎年上演しているそうです。真備町では、これまで、町名の由来にもなっている、奈良時代の政治家・文化人・吉備真備をテーマに2回、かぐや姫、桃太郎と温羅伝説と続いて、5年目に黒媛伝説を取り上げています。町内の、井原鉄道の高架の橋脚に、地元の中学の美術の先生と生徒が、吉備真備の絵とともに、黒媛のイメージ画も描いています。

 ここに書かれている歌も古事記からの引用で、黒媛が難波の宮へ帰る仁徳天皇にむけて詠んだとされています。

  

 ▼ 大和へに 西風(⇒”にし”と読む)吹き上げて 雲離れ   退(そ)きおりとも  我忘れめや ▲


 解説では、この歌は同じものが、丹後風土記に浦島の子を送る神女の歌として載っていて、「独立芸謡」の改作歌とされている。


 日本初の前方後円墳である奈良のまきむく遺跡の発掘を基にした、古代史の最近の学説では、二世紀末の北九州には、邪馬台国に代表される豊かな大陸文化を享受した小国があり、一方、当時は後進地だった近畿地方に、九州から吉備を経て移住してきた航海民が、三世紀のはじめに、独自の「首長霊信仰」を精神文化の支柱にして大和朝廷を誕生させ、日本統一の動きが始まる。そのころまだ東北では、縄文文化の繁栄の余韻が続いていた・・・・。四世紀、大和朝廷は、出雲や北九州を従え勢力を伸ばしていく。朝鮮半島にも進出したとされる。五世紀になって、奈良盆地から河内平野に朝廷の本拠地を移す。現在の堺市に日本最大の前方後円墳である仁徳天皇陵が作られたのはこの時代である。

 この同時期、吉備でも現在の総社市に、同じ規模の前方後円墳が作られており、吉備の豪族は大和朝廷のよき協力者として、製鉄や製塩の技術などもこの時代に吉備から大和に伝えられている。黒媛伝説は、このような五世紀の大和と吉備の深い関係を物語るものと考えられる。

 また、中国から伝わった漢字によって8世紀の奈良時代に、「古事記」の中に書き言葉として書き記された歌は、何百年もの間人々の中に歌い継がれていたものを、これも神話として語り継がれてきた天皇の物語の中に取り込んだものだ。


  12月3日のミュージカル上演に向けて練習が続いている。今年もまた、「ひと皮むける」体験が出来そうだ。

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